奥州相馬の国

奥州相馬の国

私自身の生まれは北海道十勝の国帯広ですが、父方も母方もそれぞれ中村と小高というともにかつては相馬藩の居城があった町の出身です。つまり私は百パーセント相馬人ということです。これまでそのことをあまり意識していませんでしたが、昨春その相馬を自分の死に場所と思い定めたとき以来、自分の半身を形成している風土にようやく興味を覚え始めました。

バッパさんの新婚時代

昭和9年の10月ごろらしい。 場所は小高町福岡。あの頃としては珍しい洋館(?)住まい。

左から父・稔、母方の叔父・誠一郎、同じく健次郎。バッパさんが柵の向こう側にいるのは、たぶんお腹の大きいのを隠すためか

翌三月に兄を出産するはず

母方の先祖

 古い書類の中から祖父安藤幾太郎が毛筆で書いた家史(の断片)を見つけた。婿として入った安藤家を、株の失敗によって没落させた罪滅ぼし(?)の意味で調べたのか。出典は何か、全て伝聞によるものなのか、と詮索するとその信憑性はいささか疑わしく思えるが、ともあれこれによると、金房村の安藤家と八戸の安藤昌益とは今のところ関係なさそうである(04/1/30)。



昭和弐拾弐年拾一月

   吾が家史  幾太郎記 六十八歳

  


  安藤家

     故安藤庄八翁の傳

翁ハ天保三年九月十五日陸奥国八戸町川内村に生る幼名を與八と称す家世々農なりしが天保四年三月翁二歳の時父庄八母つぎ姉きみと一家を挙げて移住を企て郷里を去りて磐城国標葉郡大堀村瀬戸焼業庄次郎(現今陶運〇の家)といへるものに寄る庄次郎翁一家を川房村門馬勘助方に送り寄らしむ(門馬氏は当時酒屋として富豪の家なりし)父庄八の川房に至るや主家に尽くし忠実勤勉一日も怠らず門馬氏深く望を嘱し翁一家をして大田和村の現今松本一意氏の宅地ハ廃家となりゐたれば行きて家を興さしむ翁の父母移り居り日夜業につとめ家を興すに餘念なし次男伊之八生る後の安藤與右エ門にて安藤市太郎の祖父にあたる

庄八五歳のとき歳飢盗賊の難ありて人々安居することを得ず止むなくここを去り常陸国水戸市にいたり常盤大護院に寓したり次いで魚商を営みたり此の間母病んで死す翁十五歳のとき水戸藩士二千石を食める岡本友之助の若黨となる翁性剛毅忠直主の愛する所となり或る時翁を試みんと翁の夜警所に微行せしに翁之を見付け矢庭に脇差を抜いて切りかからん気構なり主人聲をかけおまいの膽力見えた見えたと言へて賞されしとなん翁の父また相馬を戀ひ水戸を去り再び川房村門馬方に身を寄す時に大田和に寡婦の住めるを見て翁の父を入れて家を興さしむ翁二十八歳のとき太田村唯野喜七の長女ふみを娶る弟〇八村内に養子となる安藤姓を名乗る。當時ハ飢饉の後を受け戸口減じ田野荒蕪し國を去りて漂浪するもの多し此の間に立ちて翁父子日夜農業につとめ荒地を開墾し益々家業につとめ一家の基礎を定めたり爾来幾星霜遂に今日に及ぶ祖父平生子孫に教ふるに勤倹忠実を以てし老躯と言えども安逸を貪らず丹精壮者を凌ぎ郷人の尊称する所なり翁また夙に基督教を信じ明治三十年八月二十二日家族五人を率ゐて宣教師ホーイ師より授洗したり自らアブラハムと称し人を教へ他を導き賀嘗て怠ることなしその信仰の篤くして誠神に透る人その徳を欽仰し翁を徳とせざるものなし然るに明治四十二年十二月三日七十八歳を以て〇焉として逝去す



拾遺

安藤姓を名乗ったのハ磐城平の藩主安藤姓を取ったとして家へ傅へし刀一振短刀(達磨正宗)ハ上り〇の紋ありて平藩の上役家老あたりの用ゐしものなりし馬具、陣笠の破れたるものもあった

兎に角翁は武士気質もあって家柄も重んじ相馬藩士の渡部某の家を継承せるを以て其の一端を見るべく一時安藤家の戸籍を脱して渡部家を仝家の刀一振を譲られてゐる

翁の交はる人皆一村の有力家のみで川房の飯崎榮氏の父(かぢや)とハ兄弟名乗をした、仝家ハ金房村の最有力家なり、仝時代の村長石川昌修氏ハ特別の懇意なりし孫婿伊之治郎も翁の石川氏との間にて決めたものなり

大家川房の有力家にて安藤と出入せぬのいなかったよびよばれしてゐた

庄八の父弥兵衛よく働き朝早く野に出づ星未だ光を消さぬので村人称して弥兵エ星といって近隣その働きをたたいた

   (原文ママ、ただし〇部分は判読不可能。以下に簡単な家系図あるも省略す)

■母方の祖父安藤幾太郎の実家井上家について――島尾敏雄『忘却の底から』より



  知り得る最初の先祖の名は新谷源太、関東黒羽藩士で、彼はのち、新谷なる士の株を売り百姓になった。

  伯父幾太郎、昭和三十九年に私(敏雄)に与えた手紙に「新開(と彼は表記している)源太、享保年中高野山より御祈祷の巻物を持来現に私所持」とある。

  幾太郎伯父は言う「私等の祖先ハ歴とした士族であってその証拠ハ福岡の田村家が本家で色々のことは私ハ皆記録して系図書も皆んなにやっています」

  ところがあの新谷源太からいきなり点線で田村源左衛門に繋がっている。 

田村源左衛門 確かな先祖 旧福浦村大字福岡が本拠

  長男が田村姓を、次男が杉本姓、三男と四男が梅田姓、末子が鈴木姓を名のっているが、なぜそうなったかはわからない。

〇井上家は次男杉本から別かれた祖父(敏雄の母の父)が始めた家系

        丑之助――――――――――キク

     (大正13年5月22日死)   (昭和14年3月27日死)  

この夫婦から五人の子供が生まれた。松之助、幾太郎、政衛、豊記、トシである。          


 トシの父方の従兄に俳人天野蒼郊、母方の従兄に同じく俳人豊田君仙子がいる。

  天野蒼郊は福島市で「福島新聞」を経営したり郡視学をつとめた。また正岡子規の影響下に創立した『隈吟社』なる結社の中心的存在。其の流れから豊田君仙子が登場。彼は渡辺水巴の『曲水』に拠り、校長、村助役をつとめながら生涯句作を続けた。


★父方の先祖について(2014年6月23日のモノディアロゴスより)

 さて先日はばっぱさんの「推定無罪」などという思わせぶりなことを書きながら、その後すっかり放置したままだった。と言って、その後の「調べ」が進んだわけではないし、今さら事件を詳しく追ってみるつもりもない。とりあえず今まで分かった、あるいは推測したことをまとめてみるつもりだが、今日はその前に、佐々木家の歴史に関して少し面白そうなこと(?)が分かったのでその方の報告を先にする。

 それはばっぱさんの百二歳の誕生日(七月三十日)までに『虹の橋 拾遺集』を作ろうとしていた過程で分かったことである。つまりこのところ時間があると(時間などあり余っているようだが、雑用が重なって一日があっと言う間に過ぎてゆく)ばっぱさんが書き残した文章やら短歌などをワード文書に取り込んでいた。今回がたぶん最後の文集になると思うので、祖母・安藤仁の遺文や大叔母(島尾敏雄の母・トシ)の手紙、さらには祖父・幾太郎が安藤家(彼が婿として入った)と井上家(彼の実家)について平等に(?)書き残してくれた家譜を収録するつもりでいる。

 しかしそうした作業を続けながらも、ばっぱさんの連れ合い、つまり我が父・稔のことが気になりだした。確かに『虹の橋』とほぼ同時期に、『熱河に駆けた夢 佐々木稔追悼文集』(呑空庵刊)を既に作ってはいる。しかし若くして死んだこともあって、我が家では母方の親戚と比べて父方のそれとの交流は少なかった。もちろん私が小五の秋、北海道から内地(たぶん今も向こうでは本州のことをそう呼ぶはず)へ移住してからは、同じ町に住む父のすぐ下の弟・堀川直(つよし)を通じて、佐々木家の人たちとの交流も少しずつ増えてはいた。だから彼からいろんなことを聞き出せたはずだったが、いつでも聞けると安心していたのがまずかった。つまりこの叔父も昭和五十八(1983)年、六十九歳の若さで他界してしまったのである。

 そう考えると、平成八(1996)年に相馬の松川浦の民宿で佐々木家のいとこ会をやったことが、佐々木家の親戚同士のつながりがかなりの程度まで回復することに役立つ実にいい機会であったことが分かる。幼い子どもたちも入れると総勢30人以上も集まり、終わった時点では異口同音にこれからはオリンピック並みに4年ごとにやりましょう、と誓い合ったことも覚えている。

 しかしあれから18年、4年後どころか以来一度も集まることも出来ず今日に至っている。物故者も既に何人か出、高齢化も進み、それに今回の大震災。あの時集まって本当に良かったと思うしかない。さてこの先はどうなるか。元気な者たち同士、努めて音信を絶やさないで次代に望みを託すしかないだろうが、我が家の場合だけでなく、いまや時代の風潮なのか、かつてはあった濃密な親戚づきあいが徐々に薄くなっていくような気がして、はなはだ心もとない。

 ともあれ今回、今の時点でも出来ることはやってみようという気になって、佐々木家の系譜について二、三心当たりに当たってみることにした。一つはビスカイーノの紀行文の翻訳をしたときに知り合いになった相馬市市史委員会のK氏である。先日氏に電話したところ、この四月から市民課に栄転になったとか、しかし彼の紹介で相馬藩に詳しいT氏を紹介してもらった。そのT氏、近く拙宅に寄ってくださることになっている。

 もう一つの手がかりは、父の兄の孫で函館に住むN.Tさんである。彼はむかし直叔父が函館を訪ねた際、その叔父から佐々木家の歴史をかなり詳しく教えてもらった人だ。彼は既に他界した従姉の子ではあるが、私よりわずか二つ下で、例のいとこ会以来時おり手紙のやり取りをしてきた。むかしはどの家もそうだが佐々木家も子だくさんの家で、父の兄弟はなんと七男四女の11人。父は六男、堀川の叔父は七男。だから上と下では親子以上の年齢差がある。

 言い忘れたが、ばっちこ(末っ子)の叔父は、遅く生まれたおかげで佐々木家の繁栄の余沢を受けることもなく、幼少時から没落の被害をまともに蒙った。以前よく東京での苦学時代の話を聞いたが、話術が巧みなのか何度聞いても実に面白かったことを今でも覚えている。そんなこともあって佐々木家への思い入れは誰にも負けず、堀川家に婿入りしたが生涯佐々木家への愛着を忘れることなく、相馬市にある佐々木家代々の墓の世話を子どもたちに念を押して世を去った。

 さて今回、その函館のNさんからのメールで、佐々木家のルーツがかなり分かってきたのである。以前も一度、彼からぼんやりと聞いていたことを今回は確認することができたわけだ。

 いずれにせよ佐々木家の系譜など他人には面白くも何ともないだろうが、いま少し勘弁願う。というのは一つ面白いことが分かったからである。つまり佐々木家があの坂本竜馬の暗殺に関わったとされる京都見回り組の佐々木只三郎に縁のあった一族だという話である。

 Nさんの手紙にはこう書かれている。
「処でお手紙の佐々木家のルーツの件について、先年と言っても40年位前の事ですが、堀川の大叔父が函館にお出でになった時に、新撰組土方歳三が戦死したと言われる場所に出向き供養をされたことを知りました。その訳をお聞きしましたところ、幕末の京都見廻り組の佐々木只三郎は当佐々木家と縁が有るとのこと、それ故戊辰戦争で戦死をした幕府方の土方歳三の霊にお参りをしたのだと説明されていた事を良く覚えております。
 その後大叔父から聞いた事ですが、佐々木の先々代が幕末に会津から仲間3人で相馬に移り、武士の商法ながら、ろうそくの商売を始め成功した、他の仲間も一人は米屋、もう一人は薪炭業で成功、しかし時代の変化でろうそくの商売は衰退、その後佐々木家の大叔父達が其々の道を歩まれたとの事でした。…中略…母は豊原[樺太]の生まれ育ちですが、大正8年のスペイン風邪で警察官であった父(佐々木家次男・兵蔵)を亡くし(31歳)、その遺骨を持って母親に連れられて相馬に行った折の事を良く話していました。母が4歳頃の記憶ですが、相馬のおばーちゃん[仙台・鉄砲町の守谷興昌長女モト]にやさしくしてもらったこと、大きな梨を両手にしたことなど、また相馬の駅から他人様の土地を通らずに行けた程の家であったとも、蔵もいくつか有り盛んな時もあったという、佐々木の家の事を誇らしげに語っていました。」

 ということは、以前相馬市・市史委員会からもらった『衆臣家譜』(5分冊)をいくら探しても分からなかったのはとうぜんで、T氏に拠れば戊辰戦争後、会津から相馬に来た武士たちはそこには収録されていないそうである。

 奥羽越列藩同盟の中心であった会津藩は安部晋三の先祖たち(!)の新政府軍に敗れ、あの白虎隊の自刃などのあと、その大半は陸奥斗南(となみ)に移封、次いで廃藩となったが、佐々木家の先祖たちのように東北の各地に逃れた者もかなりいたということだろうか。

 それにしても先祖が始めたというろうそく屋が米屋や薪炭屋とは違って、やがて電気の時代となって没落したとは、何たる皮肉、それから百数十年後、今度は原発事故に被災したわけだ。なぜろうそく屋になったか。おそらく会津時代、そこで盛んだった絵ろうそくの製法を家人の誰かが知っていたからではなかろうか。ろうそく屋をしたことは他からも聞いたことがあるが、いくつか蔵を持つほど繁盛していたことは今回初めて知った。住所がはじめ中野北反町2番地、次いで寺前149番地であることは、直叔父が書き残した先代以後(私からすれば祖父)の記録から分かっていたが、直接行って確かめることもしないでいた。

 ともかく没落後、佐々木家の兄弟たちは北は稚内、南は名古屋へと、各地に分散してしまった。私がもう少し若ければ、かつて安岡章太郎さんが『流離譚』(1976~81)でやったように「錯綜する歴史資料との格闘を通して、安岡家の祖先を描き出すことに成功」(ブリタニカ国際大百科事典)するのに。そのとき彼は五十六歳…あっそうか、若さだけでなく文才が必要だったわい。それにしても佐々木只三郎との「縁」とは血縁なのかそれとも地縁なのか。本来ならば会津に出かけてでも先祖探しをするところだろうが、それだけの体力も根気もない。先祖が会津のサムライだったということを知っただけで満足することにしよう。

 そんなこんなで、今まで全く興味がなかった京都見回り組や戊辰戦争、函館戦争などのことまで調べ始めている。ほんと、この調子だと忙しくて死ぬ暇もなくなるわい。

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