家族アルバム
 
/ 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 /

271.jpg

敏雄さんと健次郎叔父さん
同じ歳のいとこ同士
272.jpg

昔のバッパさんと誠一郎叔父
後に二人とも満州に渡ります
91.jpg

蓄音機に耳を傾ける父とその友人
おそらく結婚前の父だろう。代用教員時代だろうか。豊田君仙子さんが校長をしていた小高金房小学校?
230.jpg

独身クラブ?
代用教員時代だろうか?
51.jpg

緑の野原に遊ぶ幸福そうな一家
昭和13<1938)年ごろ、そのころ両親が教師をしていた芽室町であろうか。すると私はこの世に全く存在していないときのものである。
74.jpg

生後50日目のパパ
生まれたときからギョロ目。何に対して目を剥いている?
227.jpg

家族を待ちわびて
単身赴任時代の父。たぶん家族の来満まじかで夜具の整理でもしているのでしょうか。
88.jpg

昭和15(1940)1月、帯広
帯広なのか、あるいは母が教員をしていた芽室なのか不明。それにしてもバッパさんが賢母に見える。こんな時代もあったんだろう。
9.jpg

北京北海公園で父
おそらく1940年ごろ、父が単身中国に渡ったときの写真か。
231.jpg

仲良し(?)三人組
仕事が終わってから飲むようなこともあったでしょう。
49.jpg

幼い兄と姉
もう私も生まれてたはずだけど…ところで満州渡航のことは、いつごろから両親の頭に芽生えたのであろうか。
15.jpg

三人きょうだい
おそらくこれは昭和15年、帯広で撮った写真だろう。翌年一家は旧満州に移住することとなる。
20.jpg

ランペイの古代長城
今年<2005年)の大連・撫順旅行では行けなかったが、穎美の里帰りに合わせて、ぜひ一度はランペイを訪ねたい。確か町はずれに鉄道が通っていたはず。興味のある方は「富士貞房作品集」の「ピカレスク自叙伝」をお読みいただきたい。
30.jpg

昭和16(1941)年4月3日
5月に満州に渡るので、一族の別れを記念しての撮影のはずだが、一歳八ヶ月の私はどこに?あまりにうるさくて外されたか?場所は帯広市。祖父母と叔父叔母たちと私の家族。
17.jpg

渡満前、博多にて
昭和16年5月、旧満州に渡る直前の写真。相次いで渡る母方の叔父夫婦、博多航空隊にいた叔父、九州帝大在学中の敏雄さんと一緒の記念撮影。
37.jpg

博多の街を走る兄と姉
満州に渡る直前。今は亡きC叔母の姿も見える。私はまだ走るまでには大きくない。
16.jpg

ランペイに着いた日
着いた日であることは、石段に置かれたトランクで分かる。皆でいったい何を見ているのだろう?
14.jpg

ランペイの家の前で
昭和16(1941)年の夏か。どういうわけか私は女の子の服(姉の?)を着せられている。
19.jpg

中国服の父
父の死んだ齢の2倍を生きて、初めて父のことを考え始めている。医者もいない僻地で結核に斃れた父。この元気な姿からは迫り来る病魔の影さえ見えない。
193.jpg

いつもダンディーな父でした
あまりに若い死が待ち構えていようとは
90.jpg

馬に乗る父
集落を回るには馬しか移動手段は無かったのだろう。約2年のあいだの徒労が祟って後に結核を患う。
148.jpg

ランペイの裸山で
ここに兄はいますがパパはいません。『ピカレスク自叙伝』に出てくる小田切さんことミツモトさんと一緒に。
121.jpg

時にはトラックで
厳寒時にはラジエーター部分に大きなマスクが必要。
229.jpg

同僚たちと
ランペイにこんな細工をする写真屋さんがあったのでしょうか。それとも承徳あたりの写真屋さんに頼んだのでしょうか。
233.jpg

何かの視察?
ここはランペイとは違う場所?

/ 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 /

- ImageAlbum -